【哲学】システムは人に実存的不安をもたらしてはいないだろうか?
そういえば誕生日なので、書きたいことを書く。現代社会における実存的不安とシステムの関係を考える。
現代社会は自由と責任を強制される社会である。大抵のものは便利になり、人は自由に仕事を娯楽を享受することができる。一方、享受は強制に言い換えられる。人は、自由に生き方を選べる反面、生き方を「選ばねばならなくなった」。
特に情報化社会である今は、インターネット技術を用いて人はどこからでも、いつでも仕事をできるようになり、仕事は一層効率化された。娯楽も同様。動画や音楽をどこからでも楽しめるし、友達と遊ぶ約束、飲む約束も短時間で行える。生き方も多様になった。実力が伴う人間にとっては生きがいを見つけやすく、生きやすい世の中になったはずである。
しかし自由には競争が伴う。自由の権利と副作用としての競争原理は、現代社会では情報化の波によって顕著に現れる。意識せず暮らしてきた人たちは、情報化の波がもたらす富の偏重と、自身の仕事が人知れず情報化によって機械的な業務を強制され始めていることに、僕はエンジニアの視点から痛感する。油断すると仕事を奪われたり、システムに取り込まれたりするのである。
この現象は工業化が進んだ産業革命でも過去に見たものである。 「どん底の人びと―ロンドン1902」(岩波文庫) では、当時の工業化で機械に取り込まれた労働者階級の悲惨な状況を描く。子供たちが長時間労働を強いられ、非人間的労働を強いられた人たちは当時発明された安酒「ジン」に呑んだくれる。実存的不安に対する安易な解決策である。諷刺画家ウィリアム・ホガースの「ジン横丁」を見たことがある人も多いだろう。
ウィリアム・ホガースの「ジン横丁」/wikipediaより引用
現代社会ではシステム化に伴う非人間的労働も苦だが、余暇もまた苦である。ある程度生活の保証がされている現代社会では、寿命だけがいたずらに伸び、自分の人生について漠然と「なんのために生きているのだろう」と考える余暇も増える。古代ギリシアならその余暇は哲学の発展に寄与しただろうが、現代において余暇がどう発散されているか。現代は個人の基本的人権が「いちおう」保証されているために(また、いちおう、何でもできるために)、他者や社会との関係性は複雑になる。すると、人は悩む。現代においてこうした「生きる意味がわからない、という不安」は、哲学の世界では実存的不安と表現できる。すでに過去に予言されていた道なのである。
実存的不安を「人間は自由の刑に処せられている」と形容したのはフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)である。サルトルは「実存は本質に先立つ」という名言を残している。これは、人間はたしかにそこに実際に存在しているのに、レッテルを貼ることで人間の本質を見極めようとする癖があることを戒めるものである。
「実存主義とは何か」 では、キリスト教的世界観である、神を世界の中心と見る人間軽視的世界観と対比し、無神論的人間尊重の世界観を表現している。ただ彼は人間尊重の副作用である責任にも触れている。
書籍名: 実存主義とは何か(サルトル著・人文書院)
「実存主義とは何か」(サルトル著・人文書院)より引用
現代、特に若者に対して現代社会の実存的不安への立ち向かい方を提示した人といえば、瀧本哲史(不明-2019)であろう。
「僕は君たちに武器を配りたい」(講談社) の中で、個人として社会に立ち向かう知恵「スペシャリティ化」を説く。これもまた強者の論理なのだが。
書籍名: 僕は君たちに武器を配りたい(瀧本哲史著・講談社)
システムは諸刃の剣である。システム化により、人を多忙な作業時間から開放することもできる一方、人を無職に追いやることもできる。人を感動させることもできる一方、人の心を踏みにじることもできる。自らが作ったシステムが人にどのような影響を与えうるか、その無自覚さが誰かの実存的不安を増長させてはいないか。コードを書きながら、自戒を込めて筆をとった次第である。
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