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【ディズニーランド】ディズニーランド(1/3)-夢の国へのどろんこ道-
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ざっくり言うと
- ディズニーランドのうんちくを語っていたら、結構な大作のブログができた。11/11-15はディズニーランドWeekとして3回に分けて投稿予定。
- アメリカ中央西部の貧相な土地から、ウォルト=ディズニー少年は夢の国を描いた。
- 絵が描けなかったディズニー、自分で夢の国を創り上げると決意。
ディズニーランドWeek
前回の記事でディズニーランドのうんちくを語っていたら、結構ディズニーランドについて書けることあるなあ、と思った。あと評判も良かった。
【ディズニー】令和のハッカー-ディズニーの年間パスポートを買ってオフィスとして使う人たち-
文章を書いていたら、思わぬ大作になった。なので11/11-11/15はディズニーランド特集として、ディズニーランドの知られざる歴史を語っていきたいと思う。
参考書籍は「ディズニーランドという聖地(能登路雅子著/岩波新書)」 である。筆者はアメリカ史をメインとする文化人類学者であるが、1980-1983年に東京ディズニーランド立ち上げプロジェクトに参加し、日本のキャストに対してディズニーの歴史とディズニーランドの文化を伝える職務についていた経験がある。発刊が1990年のため少々古い書籍だが、興味深い内容が満載である。
ミズーリの貧相な土地で、夢の国を描く
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1955年、南カリフォルニアのアナハイムにてディズニーランドは開園する。開園式の祝辞でウォルト=ディズニーはこうスピーチした。
この幸せな場所にようこそ。ディズニーランドはあなたの国です。ここは、大人が過去の楽しい日々を再び取り戻し、若者が未来の挑戦に思いを馳せるところ。ディズニーランドはアメリカという国を生んだ理想と夢と、そして厳しい現実をその原点とし、同時にまたそれらのために捧げられる。そして、さらにディズニーランドが世界中の人々にとって、勇気とインスピレーションの源となることを願いつつ。
「ディズニーランドという聖地(能登路雅子著/岩波新書)」 より引用
彼はテレビのインタビューでディズニーランドをなぜ作ったのか、という問いにいつもこう答えていた。
ディズニーランドの計画は実のところ、僕のふたりの娘がまだ幼い頃に始まった。週末には一緒によく近くの遊園地に遊びに行ってね。娘たちが回転木馬に乗っている間、僕はひとり退屈してベンチに腰掛けてピーナッツをかじりながら、ふとこんなことを考えた。もうちょっとはましなところ、大人も一緒に楽しめるようなところがあっても良さそうだなと。結局それを創るのに15年もかかっちゃったけどね。
「ディズニーランドという聖地(能登路雅子著/岩波新書)」 より引用
筆者はこの理由はテレビ向けの気持ちの良いコメントだろうと一蹴する。ディズニーランドへの執念は、彼の生い立ちにあると。
アメリカ中央西部。1900年代。現在のミズーリ州マーセリーンで、ウォルト=ディズニーは悲惨な幼年時代を過ごす。四兄弟の末っ子で、父はアメリカの西部開拓に希望を抱き、農園を構えていた。しかしその希望も虚しく、中央西部の生活は困難を極めた。吹雪による凍死、毎年のように起こる干ばつ、毎晩襲う砂嵐。当時の西部開拓者は毎日家にこもり、窓に豊かな田園風景の絵を描き、妄想に包まれながら死に至った。父も干ばつの影響で農園経営に苦しんでのち、腸チフスにかかり仕事ができなくなってしままう。当時ウォルト=ディズニーは4歳。農園経営は長男、次男が奮闘するも、4年後農園をなくなく手放すことになる。
GoUSA公式サイトより当時の農民にとってのもう一つの大きな障害は、泥、であった。当時アメリカは西部横断鉄道などの開拓が展開されていたが、多くの農民は鉄道駅から離れたところにくらし、道はほとんど舗装されていない泥道であった。鉄道駅からの物品や郵便配達はほとんど届けられなかった。幼年期のディズニーはその泥道の苦しみを糧に、ディズニーランドの壮観な舗装されたメインストリートに固執したのかもしれない。
現在のディズニーランドには、幼年期のディズニーの好対照となる構造がいくつも見られる。ディズニーが始めて生み出したキャラクター、「ミッキーマウス」が、不潔なイメージのネズミに対して正装のネズミであることも、偶然ではない。ディズニーランドには必ず、城に至るメインストリートが存在し、ほとんど大自然の影響がない人工的な構造物で埋め尽くされている。街路樹はほぼすべてが落葉しない常緑樹であり、花は毎日のように満開の花に置き換えられるか、そもそも人工の花である。動物はディズニーランドの初期に「ジャングルクルーズ」にて存在したが、ただちに人工物に置き換えられた。「地上で一番幸せな国」は、ディズニーにとっては自然の余地を許さない国だったのである。
絵が描けなかったディズニー
ディズニーランドの建設計画は1950年、当時「ピノキオ」や「眠れる森の美女」などの映画アニメーションをヒットさせつつも、大衆がディズニーに対する期待値が高く、多少のマンネリ化を生じさせていた頃に思いつきで始まったものである。彼は自嘲気味に部下にこう語ったという。
他の連中に絵を描かせたり彩色させたりするのにも、いい加減飽き飽きしてきた。ここいらでなにか自分でも作ってみたくなったよ。
「ディズニーランドという聖地(能登路雅子著/岩波新書)」 より引用
ディズニーランドにおいては、はじめ、立地計画も資金計画もなく、単なるウォルト=ディズニーの思いつきであった。兄ロイは、ディズニースタジオの共同経営者で金庫番であったが、兄もディズニーランド計画には反対した。というのも、第二次大戦で有力な市場であったヨーロッパ市場が閉鎖され、ディズニースタジオ自体銀行からの莫大な借入金が存在し、財政危機であった。そんな状況でディズニーランドなんて到底考えられなかったのである。
しかしその夢を諦めきれなかったウォルト=ディズニーは、長らくディズニー・スタジオを支えてきた銀行家たちに資金調達の行脚に向かう。しかし、「前代未聞の野外エンターテイメント」では夢物語すぎるがゆえ、全く資金調達に至らなかった。
そこで、ディズニーは妙案を思いつく。現状深いつながりがあったケーブルネットワークテレビジョン各社に、ディズニーの番組制作契約を条件にディズニーランド事業への出資を提案したのである。当時視聴率の面でディズニーの番組を制作してくれる提案は魅力的であったが、ディズニーランド事業というものがあまりに妄想がすぎるので、各社はこの提案を断ってしまった。
ディズニーランド事業はこのまま夢のままで終わるのか。具体的なイメージが湧かないのが原因では、と考えたディズニーは、説得力をもたらすイメージ、ディズニーランドのテーマパークのイメージ図が必要だと考えた。
1953年9月のとある朝、1940年代にディズニー社に勤め、その後20世紀フォックスで美術を担当していたハーブ=ライマンは、突然ディズニーからの連絡を受け、ディズニースタジオに呼び出された。
スタジオに着くや否や、ライマンはディズニーからディズニーランドの建設イメージや兄が出資交渉のため2日後に図面を持ってニューヨークに行くと伝えられた。
「それじゃあ、図面はどこにありますか?」とライマン。 「それを今から君が描くんだよ」とディズニー。
それから2日間、ライマンはディズニーに缶詰にされ、ディズニーは2日間昼夜問わずディズニーランドのイメージを語り続けたという。ライマンはまる2日かけ、白い画用紙に夢の国を描き出した。
2日後、兄ロイはその図面を持ってニューヨークに出発、3大ネットワーク、CBS, NBC, ABCに提案を行った。うちCBS, NBCには断られたが、唯一ABCが好感触を示した。当時ABCは他の二社に遅れを取っていて、なんとか競合を出し抜けないか模索していたところだった。社長のレナード=ゴールデンソンは、ライマンの絵を見て一言。
思うどおりにやれ、とウォルトに伝えてくれ。参加させてもらおう。
ABCテレビは、1時間のテレビ番組を7年間ディズニーが制作するという破格の契約と引き換えに、ディズニーランドへの建設に累計500万ドルを約束した。こうして、ミズーリのどろんこ道から夢の国への第一歩が築かれたのである。
余談(おすすめ本コーナー)
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