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【エッセイ】手段が目的化は本当に悪いことか?趣味は手段の目的化そのものだが。
ざっくり言うと
- 典型的なダメ仕事「手段の目的化」。だが極端に回避していくと、、
- 手段-目的ツリーは無限の鎖構造。哲学の世界でも、経営学者サイモンの考察でも取り上げられた。
- 手段の目的化は決して悪いことではない。熱中とは手段の目的化そのものであり、熱中する人に他者は及ばない。
典型的なダメ仕事「手段の目的化」
典型的なダメ仕事として、手段の目的化がある。
視野が狭くなり、本来の目的を見失って目先の手段にばかり追いかけてしまう状態を指す。例えば、売上を上げるために顧客訪問リストを整理していたら、色々フィルタ条件を作りたくなって1日エクセルを作成してるだけで日が暮れた、というようなものである。
システム化はよく目的化の過ちが起こりやすい。BacklogやRedmineなどのチケット管理を一生やっている人がいる。意図的か偶然かはともかく、チケット管理だけで仕事は終わらない。仕事は情報を整理して意思決定をすることでやっと終わるのであり、チケット管理で見た目を整えても気分が良いだけだ。
だが、手段の目的化は必ずしも悪いことではない、というのが本記事のテーマである。というより、むしろ手段の目的化を意識的に行っていこう、と主張すらしたい。
この主張を説明するため、そもそも手段と目的はどういう構造を持っているのか、という説明から始めたい。哲学的な問いであり、多くの人が解き明かそうとした魅惑の構造がそこにはある。
手段-目的の鎖構造
僕がこの構造に気づいたのは高校二年生の時で、俺すごいとなったが、すぐにあらゆる哲学者が悩んだと知り残念な気持ちになったのを覚えている。大体みんな同じことを考えているものだ。
最初気づいたときはこんな感じだった。すべての物事はある一つの目的に向けた手段なのであり、その一つの目的からみると放射状に手段が広がっている。そしてそれぞれの手段はそれ自体が目的として働き、下部に手段を持つ。
言葉で書くと意味不明なので、図にする。
ある手段は上位の目的を達成するために存在する、ということを指している。
じゃあ上部で達成する目的は絶対的存在なのか。というところが問題だ。
上図で言えば、「幸せになる」を手段とする存在は、一体なんなのか、ということである。
哲学の領域は、人生の目標についてものすごく考えている。
中世までは神という絶対的存在があったので、人間の絶対的目標は神に認められる存在、例えば天国に行ける状態になることを目指していた。
だが近代になると、神の概念が崩れた。結果的に、???は存在しないことになったのだ。とりあえず人間は、幸せになるという目標に向かって飽くなき追求をし続けることになったのである。だが、幸せになる、という状態は各人によって違うだろうから、自分で「幸せになる」からツリーを構築していく必要が出てきてしまった。そして、それはとても大変だ。
ちなみに以前紹介した経営学者サイモンも手段-目的の鎖構造に触れている。
【ハーバート=サイモン】人間はどうやれば合理的な選択を行えるのか(Reason in Human Affairs)
サイモンは、手段-目的ツリーを「理性への過信」という形で言及し、理性が手段-目的のループを持つこと、理性への過信がナチス=ドイツの怪物を生み出してしまったと結論づける。詳細は上の記事を参考にしてほしい。
趣味と手段-目的ツリー
仕事と趣味というフィルターを通してループを見ると、実は興味深い場合分けができる。
仕事: 目的を達成するために行う手段。手段を目的化すると仕事にならない。
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趣味: 目的そのもの。手段を目的化する行為。
仕事と趣味は真逆。仕事は手段を目的化すると仕事にならない。趣味は、行為そのものから快を得るものなのだ。
超合理的な人間は、全てを仕事として捉えることになるので、手段に執着することはバカバカしいと考える。だが前述の通り、手段と目的はツリー構造をしているので、幸せになる、への無限追求へといずれ達することになる。すると超合理的な人間は、自らによって幸せになるという状態を定義することに疲れ果て、「果たして私はなんで生きているのだろう」という実存的不安を抱えることになるのだ。
実存的不安については、下記を参照。
【哲学】システムは人に実存的不安をもたらしてはいないだろうか?
一方趣味を持つ人間はどうなるか。趣味とは手段そのものから快を得る行為であるから、手段-目的ツリーを意図的にやめることができる。さらに、快を得る、とは「幸せになる」そのものではないか。この意味で、超合理的な人間よりも幸せになれるのだ。
ツリー構造には現れないが、趣味として手段に熱中する人間は、仕事として手段を行う人間よりも著しく良い成果を上げることができる。趣味と定義できている行為ならば、幸せにより近いのは趣味を持つ人間なのだ。
もちろん、超合理的な人間は、「時短」そのものから快を得ているという考え方もある。この場合、時短を趣味として幸せを定義すればよいだろう。そして時短とは一度きりの人生でやれることを増やす→幸せになる、ということなのだろうか。
手段-目的ツリーに関する考察は様々な文献でうかがい知ることができるので、これからも適宜紹介したい。