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【ディズニーランド】ディズニーランド(3/3)-フロリダの理想国家と東京-

frorida-disney-land

ざっくり言うと

  1. フロリダ州オーランドにあるウォルト=ディズニーワールドは、ウォルト=ディズニーの死去後兄ロイが引き継いで完成させた、ディズニーの理想国家である。
  2. 東京ディズニーランドは千葉県舞浜の埋め立て事業を担っていた三井不動産と京成電鉄が設立した合弁会社「オリエンタルランド」がディズニー社を誘致して建設された。当時のバブルへと向かう日本の海外への興味が満たされる、異文化体験の場所として人気を博し続けている。
  3. gonjittiの考察。ディズニーランドの競争力の源泉は、映画スタジオらしい巧妙かつ奥行きのある仕掛けと、消費者に求められている以上の満足を与え続ける仕組みにある。その原点は、決して満たされなかったウォルト=ディズニーの少年時代の妄想が、反動となって表れているかのようだ。どろんこ道は、夢の国へとつながったのだ。


はしがき


1回目の記事はこちら。総スカンをくらったディズニーランド資金調達の苦労を語っている。
【ディズニーランド】ディズニーランド(1/3)-夢の国へのどろんこ道-


2回目の記事はこちら。アトラクションの仕掛けとアメリカ人にとってディズニーランドが聖地となった話を書いている。
ディズニーランド】ディズニーランド(2/3)-アトラクションの秘密-


引き続き参考書籍は「ディズニーランドという聖地(能登路雅子著/岩波新書)」である。文化人類学の知見を活かし、アメリカ人にとってディズニーランドが聖地的構造を持っていることを解き明かしている。



ディズニーの理想国家

Walt disney portrait

via Wikimedia Commons


フロリダ州オーランド。フロリダ州は「サンベルト」と呼ばれる温暖な地域に位置し、松の原生林やオレンジ、グレープフルーツといった果樹園が広がる。内陸ゆえ夏は蒸し暑いが、柑橘類産業を中心に栄えていた。


ウォルト=ディズニーは1965年11月、オーランド内のチェリープラザホテルにて、フロリダ進出計画を発表する。南カリフォルニアのディズニーランドの成功を踏まえてのことであるが、彼は最初のディズニーランドで一つ大きな不満を抱えていた。


それは、ディズニーランド周辺の土地利用に関する権限が一切無かったことだった。アナハイムは1955年の開園当時、ホテルが5件、モーテルが1件しか無かったが、ディズニーランドの集客力でわずか10年のうちに年中満室、ホテルは100室から4300に急増し、周辺には250ものレストラン、スポーツ施設、コンベンションセンターが生まれていた。観光客はディズニーランドに10年で2億7,000万ドルのお金を落としたが、周辺施設にはその2倍の額を落としていた。自らの楽園の周辺で稼ぐやつらが、許せなかったのである。


ウォルト=ディズニーは建設発表の翌年亡くなってしまうが、思いを引き継いだ兄ロイは、フロリダ州オーランドの電力、ガス、水道、消防、建築基準、道路建設など、本来公共事業となるべきものを独自に経営できる特権を得て、超巨大ユートピア、「ウォルト・ディズニー・ワールド」を立ち上げた。規模にしてマンハッタン島の2倍、山手線の1.5倍に及ぶ27,000エーカー。しかしディズニーランドに相当する「マジックキングダム」は、全敷地の0.4%を占めるに過ぎない。この広大な土地は、周辺施設の利益をすべて独自に得ようとした結果である。


マジックキングダム自体はカリフォルニアのディズニーランドに対して面積は1.4倍、投資額は3倍に達した。すべてのスケールが2-3倍となっており、カリフォルニアの眠れる森の美女の城に相当するフロリダのシンデレラ城は、規模にして2倍である。 florida-castle

wikipediaより

地下には1.4キロメートルの地下通路があり、90年当時で7,000人のキャストが地下で働いている。園内の食料などの輸送、電動人形のコンピュータ、消防設備、防犯設備などはすべて地下にある。


ウォルト=ディズニーの理想国家思想、EPCOT(エプコット)思想を見事に体現したのが、オーランドのディズニーワールドであった。



東京ディズニーランド


1983年4月15日、千葉県舞浜に東京ディズニーランドはオープン。1970年代半ばからディズニー社は千葉県舞浜で埋立事業を行う民間企業を狙っていた。京成電鉄と三井不動産の合弁会社「オリエンタルランド」と提携し、オリエンタルランドはディズニー社に特許料を支払う代わりに、ディズニーランドを運営する権利を得た。総工費にして1,500億円をかけ、千葉県なのに東京ディズニーランドとしてオープンした。 tokyo-disneyland-open

オリエンタルランド公式HPより

1980年代初頭、日本は団塊の世代のベビーブームが到来しており、子供関連の市場が活況を迎えていた。更にバブルへの移行期で、ディズニーランド建設はアメリカの象徴の一つとして迎えられた。当時アメリカへの強い憧憬があった日本人にとって、ディズニーランドは疑似アメリカ世界を体験する格好のスポットだったのである。



ディズニーランドの競争力の源泉


ここで連載の締めくくりとして、gonjittiの考察を記載する。ディズニーランドの競争力の源泉は下記の2点にある。

- 映画スタジオ仕込の巧妙かつ奥行きのある仕掛け
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- 消費者に求められている以上の満足を与え続ける仕組み

前者は映画スタジオらしい舞台装置の構築力が的確に効いている。前回の記事でも書いたイッツ・ア・スモールワールドやカリブの海賊は、長期に渡って構築してきた舞台美術の競争力が強力に働いている。


ディズニーランドの電動人形は、「オーディオ・アニマトロニクス」と呼ばれ、極めて巧妙である。これは、オーディオ、アニメーション、エレクトロニクスの造語で、人形に対し電子制御で音と動きをコントロールし、まるで人形が生きているような動きをする。更に映画制作の知見で様々な演出がされており、間違いなく他社が真似できない演出力を備える。


後者は、ウォルト=ディズニーの思想である。人を満足させるのではなく、人に満足以上のものを与えることを基本方針としている。ディズニーランドの夕刻時、観客は一定の満足と少々の疲労を感じている最中、「パーティーはまだ終わっちゃいないぜ」と言わんばかりにエレクトリカルパレードが始まる。これはディズニーが狙いすまして夕刻に行っており、他社の遊園地が20分ほどのパレード時間なのに対し、エレクトリカルパレードは40分と2倍である。満足以上のものを与え続ける仕組みは、人をまたあの夢の国にいざなう。


ディズニーランドがどこから生まれたのかといえば、それはウォルト=ディズニーの混沌たる妄想である。自らの幼年期の不遇から、永遠に子供時代を夢中で味わえる場所が生まれたのである。ミズーリのどろんこ道は、夢の国へとしっかり続いていたのである。



余談(おすすめ本コーナー)


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