Gonjitti Blog
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【世界バブル図鑑 Vol.1】チューリップ狂騒曲:なぜ僕らは、家一軒の価値がある「花」を夢見てしまうのか?

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家一軒が、たった3本の花と交換された時代があった。

にわかには信じがたいだろう。だが、これは400年前のオランダで実際に起きた、歴史の記録である。人々は「チューリップ」という名の花に、まるで神の啓示でも受けたかのように熱狂し、全財産を、いや、未来の収入さえもつぎ込んだのだ。

正直に言おう。僕らは、この時代のオランダ人を笑うことはできない。限定スニーカーの抽選に一喜一憂し、ソシャゲのレアキャラが出るまでガチャを回し続ける僕らは、形を変えただけの熱狂の渦中にいるのだから。

これは、歴史上初の経済バブルとして知られる「チューリップマニア(狂騒)」の物語。そして、僕らの心に潜む「小さなバブル」の正体を暴く、痛烈な自己分析の物語でもある。


ざっくり言うと

  1. ウイルスが生む「偶然の模様」に人々は熱狂し、不確実性そのものが価値になった。
  2. 当時最先端の金融技術「先物取引」が酒場で生まれ、ありもしない球根が紙切れ一枚で売買された。
  3. ある日突然、買い手がいなくなり熱狂は崩壊。だが、それは新しい金融システムの幕開けでもあった。

第一幕:神はサイコロを振らない、ウイルスが振る

さて、物語の始まりは、エキゾチックな花がオランダにもたらされた16世紀後半に遡る。なぜ、数ある花の中でチューリップだったのか?

答えは「偶然性」にある。

チューリップの球根に特定のウイルスが感染すると、花びらに予測不能な「斑(ふ)」模様が生まれる。それは二つとして同じものがなく、人工的に作り出すこともできない。まさに、自然が生み出す一点物のアートだ。これって、どこかで聞いた話じゃないだろうか?そう、現代のNFTにおける「ジェネラティブアート」の思想そのものである。

人々は、安定した美しさよりも、コントロール不能な「偶然性」にこそ価値を見出した。不確実性そのものが、投機の対象となった瞬間だった。


約束手形という発明

この熱狂に油を注いだのが、「約束手形」による先物取引だった。

もともとは、秋に植えた球根が春に花咲くまでの生活費を稼ぐための、農民のささやかな知恵だった。しかし、投機家たちはこの仕組みの本質を見抜いた。現物を動かさずに、権利だけを売買できる。紙切れ一枚で、未来の価値を青天井で取引できる。

これは、金融史における革命だった。物理的な制約から解き放たれた「価値」が、人々の欲望を乗せて、どこまでも軽く、どこまでも高く舞い上がっていく。その翼こそが、約束手形だったのである。

第二幕:酒場で錬成された、史上初の「億り人」

取引の舞台は、アムステルダムの立派な証券取引所ではなかった。庶民が集まる、ありふれた酒場だ。熱狂は常に、エリートの会議室ではなく、雑多な喧騒の中から生まれる。

そこでは「イン・ヘット・オーチェ」と呼ばれる奇妙なルールがまかり通っていた。取引が成立しようがしまいが、売り手は酒代を払わなければならない。ならば、なんとしてでも高値で売り抜けようとするのが人情だろう。この小さなインセンティブは、現代のSNSで「いいね!」を稼ぐために、より過激な投稿へエスカレートしていく承認欲求の構造に酷似している。誰もが「売り抜けること」だけが目的となり、価格を吊り上げる共犯者になっていったのだ。

熟練職人の年収の10倍、果てはアムステルダムの邸宅に匹敵する価格。もはや常識は意味をなさず、昨日より今日、今日より明日、価格が上がるという事実だけが、唯一のリアルだった。

第三幕:椅子取りゲームの音楽が止まる時

永遠に続く饗宴はない。1637年2月、ハーレムの酒場で開かれた競売で、音楽は唐突に止まった。

いつものように球根が競りにかけられる。だが、誰も手を挙げない。価格を下げても、買い手は現れない。その場を支配したのは、熱狂ではなく、冷たい静寂だった。

「買い手がいない」という残酷な事実。それは、最後の椅子がなくなったことを意味する。ニュースは瞬く間にオランダ全土を駆け巡り、昨日まで邸宅ほどの価値があったはずの約束手形は、一夜にしてただの紙くずに変わった。

面白いのは、その後の顛末だ。裁判所も「契約価格の10%で和解してはどうか」と提案するだけで、ほとんどの取引はうやむやになった。国家レベルの救済策などない。だが、経済全体への影響は限定的だったと言われている。

なぜか?このバブルは、既存の金融システムから隔離された、いわば「サンドボックス」の中で起きた実験だったからだ。多くの個人は破産したが、国家は傷を負わなかった。

結論:この愚行から僕らが学ぶべき、たった一つの教訓

チューリップバブルの物語は、単なる「昔の人の愚かな話」で終わらせるには、あまりにも示唆に富んでいる。

もちろん、「価値」と「価格」は全くの別物である、という教訓は重要だ。自分が信じているその「価格」は、本物の「価値」に裏付けられているのか?と自問する姿勢は、いつの時代も資産を守るための基本だろう。

だが、もう一歩踏み込んでみたい。

もしかしたら、バブルとは、新しいテクノロジーや金融システムを社会に実装するための、避けられない「熱病」のようなものではないだろうか。

チューリップバブルは多くの悲劇を生んだが、同時に「先物取引」という概念を社会に提示した。後のドットコムバブルは多くの企業を倒産させたが、その灰の中からインターネットという巨大なインフラが生まれた。熱狂的な過剰投資がなければ、社会の変革はもっと遅れていたかもしれないのだ。

だとすれば、僕らに必要なのは、熱狂を頭ごなしに否定することではない。その熱狂の正体を見極め、その波に飲み込まれるのではなく、賢く乗りこなすための知恵ではないだろうか。

歴史は、答えを教えてはくれない。ただ、もっとマシな質問をすることを教えてくれるだけなのだ。

「この熱狂の正体は、何か?」と。